闇の神殿は、常闇を生み出すため地下にあった。
その常闇の中に、まるでひと目を避けるようにしてその女性はいた。 彼女は、闇の巫女としてこの神殿に送らてきた。 深淵の闇に仕える存在、そう言えば聞こえは良いが、いわば闇に捧げられた『供物』だった。 何故彼女が選ばれたのか。 その理由は簡単である。 彼女は明らかに、他の人々と異なっていたからである。聞こえてきた背後からの足音に、彼女は身を硬直させる。
それに呼応するように、回廊から明かりが漏れてきた。 彼女は身を強張らせたまま、冷たい石の床に膝をつき深々と頭を下げる。 身につけた装飾品の立てる音も聞こえぬくらい、彼女は緊張していた。 足音が、不意に止まる。 未だ頭を垂れたままの彼女は、固く目を閉じていた。けれど……。 「どうした? そのように震えて? 」 突然声をかけられて、驚きのあまり彼女は思わず顔を上げた。そして、小さく悲鳴を上げて後ずさる。 そう、そこには片膝をつき彼女と目線を合わせようとしていた闇の神ベヌスの姿があったからだ。 「も……申し訳ございません……わたくしは……」 消え入りそうな小さな声で言いながら、彼女は先程よりもより深々と頭を垂れる。 その様子を見ていたベヌスは小さく吐息をつくと、 苦笑を浮かべながら言った。 「謝ることはない。それよりも、そんな調子では話もできぬ」 「恐れながら、わたくしは卑しい巫女……神に捧げられた供物でございます。偉大なる闇の神と言葉をかわすなど……」 彼女のその言葉に、ベヌスはさも面白くて仕方がないというように笑みを浮かべる。 そして石畳にどっかりと腰を下ろした。 「現にこうしてかわしているではないか。吾が許す。顔を上げろ」 一瞬の沈黙。 意を決したのだろうか、彼女は恐る恐る顔を上げる。 手にした燭台の明かりに照らし出されたその顔を見たベヌスは、思わず息を飲んだ。 癖のない髪は腰まで届き、その肌は抜けるように白い。 控えめに言っても美しいその顔に輝く瞳の色は、この闇の領域では極めてまれな澄んだ青色。その耳の先端は長命種の血をひくことを示すように、僅かに尖っている。
なるほど、とベヌスは思った。
彼女はこの度の即位に際して、人々からの感謝と祝意を表す『供物』。 おそらくこの稀有な容姿ゆえ、闇の神たる自分に捧げられたのだろう。 おもむろにベヌスは立ち上がり、燭台の炎を壁に据え付けられた油皿へと移していく。 闇に包まれていたその空間は、またたく間に柔らかな光に包まれた。 驚いたように周囲を見回す女性に向かい、ベヌスはわずかに苦笑を浮かべながら言った。 「吾は闇の神なれど、光を必要としないということではない。何よりそなたが困るだろう? 」 瞬間、女性の顔に驚いたような表情が浮かぶ。 だが、すぐに恐縮するように頭を垂れた。 「滅相もございません。わたくしにお気遣いなど不要にございます」 「では、この常闇の中で、そなたは吾のために何ができる? 歩くこともままならぬであろう?」 一瞬の沈黙の後、女性は恐る恐るとでも言うように口を開いた。 「恐れながら、わたくしは生きていても宜しいのでしょうか?」 予想外の言葉に、べヌスは訳がわからないとても言うように首を傾げる。 「何を言い出すかと思えば……。では問うが、何故そなたが死なねばならぬ?」 「わたくしは、巫女という名を借りた、神に捧げられた贄(にえ)にございます。当然この命は偉大なる闇の神である貴方様に……」 思いもかけない言葉に、べヌスは女性をまじまじと見つめる。 だが、これでようやく何故彼女があんなにも震えていたのか合点がいった。 再びべヌスは女性の前に腰を下ろすと、努めて穏やかな口調で告げた。 「安心しろ。取って食おうなどということはせぬ。吾はただ……」 その言葉は、不意に途切れた。 思えば、同じようにこの神殿に送られてきた人が幾人もいる。 そのほとんどが短命種の『ヒト』であり、彼らはベヌスよりも先にその生を終え、その度悲嘆にくれていたという記憶が蘇ったのである。 そう、彼は闇を統べる神。 只人よりも遥かに長い時を渡ることが可能なのだ。 か弱く儚げでそして美しいこの女性も、長命種の特徴を持っているとはいえ、ベヌスよりも先に逝ってしまうのは明白だった。 「……いかがなさいました? わたくしが何か気に触ることを申し上げましたでしょうか?」 女性の声に、ベヌスは我にかえる。 不安げな表情を浮かべこちらを見つめる女性に、べヌスは笑ってみせた。 「大事ない。かつてあったことを思い出したまでだ。そなたが気にすることではない」 その言葉に、わずかながら女性の顔がほころぶ。 初めて見るその微笑は、美しくはあったがやはりどこか儚げだった。 瞬間、彼は今までに感じたことのない揺らぎを覚えた。 一体この感情は何なのか。 けれど、それを気取られぬように一つ咳払いをすると、彼は改めて女性に尋ねた。 「しかし、何故そのような……吾が巫女を喰らうなどという話になるのだ? この通り……」 言いながら、べヌスはぱちん、と指を鳴らす。 と、奥から足音が聞こえてきた。 「お呼びですか、主(あるじ)様? 」 「何か御用でしょうか? 」 口々に言いながら、壮年の女性と青年が姿を現す。 その姿を驚いたように見つめる新たな巫女に、ベヌスは笑いながら言った。 「彼らは吾のそばに仕えてくれる者たち……いずれもそなたと同様、この闇の領域の各地から送られて来たのだ」 この通り、皆よく仕えてくれている。 そういうベヌスを女性はしばらく見つめていたが、唐突にそのまぶたが落ち、上半身は力なく石畳に崩れ落ちた。 「おい、どうした? しっかりしろ!」 驚いたようにベヌスは声を上げると、倒れ付す女性の肩を揺さぶる。 しかし、一向に目覚めようとしない女性を抱き上げると、そこに控える従者をかえりみる。 「空いている部屋はあるか? この者を休ませる」 「かしこまりました、こちらへ」 青年が立ち上がり、先に立って歩き出す。 その腕に女性の温もりを感じながら、ベヌスは思った。 このか弱い存在を守りたい、そして心からの笑顔が見たい、と。婀霧とディーワ、両者の叫びがベヌスの耳に届いたかどうかはわからない。 けれど、真紅の沼に膝を付くべヌスは嗤っていた。 光を失いつつある漆黒の瞳をディーワに向け、呪いの言葉をつぶやく。 「以後、闇は安息をもたらすものにあらず。人々に恐怖をもたらすものとなろう。恨むなら自身を恨め、光神よ……」 言い終えると同時に、ベヌスの身体は崩れ落ちる。 赤い沼に倒れた身体は、程なくして黒い霧となり四方へと散っていった。 「……これは一体?」 驚きの声を上げる婀霧。 一方ディーワは、一部始終を見届けると重いため息をついた。 ──その身は滅びても、精神はこの世に遺すか。それほどまでに……── 私を恨んでも恨みきれぬ、という訳か。 そう吐き出すように言うと、ディーワは目を閉じ頭を揺らす。 ほぼ同時に、その輪郭は揺らめき消えていく。 水の結晶の効力が切れかけているのだ。 「待ってください、大主! 私達はどうすれば……?」 光神の全権代理人たるカイは、その任を放棄して去った。 その言葉が本心であるならば、戻ってくることはないだろう。 ──これ以上……流血は、無用。婀霧、そなたが……に代わって……── 途切れ途切れに聞こえてくる言葉を耳にした婀霧は、思わず大きな声を上げる。 「私が? 私に和議を結べと? それは……」 あまりにも荷が重い。 自分より相応しい者がいるのではないか。 そう固辞しようとした婀霧だったが、伝える前に光神の姿は光の粒となって霧散する。 同時に水の結晶は内包していた力を使い果たし、ひび割れれ粉々に砕け散った。 残された婀霧はしばし呆然と立ち尽くしていたが、すぐに我にかえり周囲に視線を巡らせた。 ブイオ攻略戦の折の犠牲者が納められた無数の棺。 和議を結ぶのであれば、彼らを家族の元へ返さなければ。 そして。 婀霧は、アウロラとベヌス、二人分の血を吸った短剣を拾い上げる。 未だベヌスの血で赤く染まっている刃をマントで拭うと、アウロラの棺のかたわらに膝を付く。 そして、改めて短剣をアウロラの手に握らせてやった。 「巫女殿、あなたの思いは、私が引き継ぎます。闇の領域と和議を結んで、この争いを終わらせます」
べヌスの視線を受けてもなお、ディーワは何も語ろうとしない。 そんな『友人』に向かい、べヌスは絞り出すように言った。「そう、なのか? そなたは吾を亡きものにしたいほど、忌み嫌っていたのか?」──それは違う! ── ようやくディーワは声を上げる。 その目は珍しく鋭く輝き、アルタミラを名乗る少女を見据えている。──私をそそのかし戦を起こさせて、何が楽しい? ──「そそのかすですって? 私は一つの可能性を示しただけ。行動を起こしたのはあなたじゃない」 ばさり、という羽音と共に、アルタミラは翼を羽ばたかせる。 同時に身体は中空に浮かぶと、夕闇色の光を放つ。「待て! 話はまだ……」 咄嗟にべヌスは立ち上がり、アルタミラを捉えようとする。 だが、彼の手が少女に触れる前にその姿は混沌の中へと溶けていった。 唖然として何もない空間を見つめるべヌス。 その背に向かい、ディーワは静かに語りかけた。──……あの少女の口車に乗せられ、行動を起こしてしまったのは私の咎だ。どんなに謝罪しても足りぬことはわかっている。しかし……──「……そうだ。もう遅い」 けれど、その言葉に対しべヌスは振り返らなかった。 そのまま倒れ伏す婀霧に歩み寄ると、息があることを確認する。 そして、その身体を横たえながら静かな口調で告げた。「そなたの忠臣は無事。気を失っているだけだ」 ようやくべヌスはかつての友をかえりみた。 漆黒の瞳からは、いかなる感情も読み取ることはできなかった。──ベヌスよ、私は……──「言い訳ならば、聞きたくはない。吾の目の前にあるのは、現実だけだ」 その時、ベヌスの目か
水の結晶は、カイの力に呼応するようにちかちかと瞬き始める。 そしてまばゆい光を放つと、それは光神エルト・ディーワの像を結んだ。 その姿を一瞥すると、カイは冷たくこう言い放った。「さっきも言ったとおりだ。俺はもうあんたの道具にはならない。自分でカタをつけてくれ」 言い終えると、カイは腰に履いていた剣を投げ捨てる。 唖然とする一同の視線を背に受けて、カイは振り返ることなく大広間を出ていった。 ディーワとべヌス、そしてやや離れた所に控える婀霧、三者の間にはしばし嫌な沈黙が流れる。 べヌスは現れたディーワの虚像とは目を合わせようとせず、冷たくなったアウロラを見つめるばかりである。 その様子に、婀霧は意を決したように息を飲むと、かすれる声で切り出した。「……最期の時、巫女殿はこうおっしゃいました。陛下にお仕えできて幸せだったと」 瞬間、べヌスの身体がぴくりと動いた。 ゆっくりと顔を上げると、漆黒の瞳を婀霧の方に巡らせる。「……まことか?」 無表情なべヌスの声に、婀霧はうなずく。「こうもおっしゃっていました。いつか必ず、あなたの元へ、と」 言い終えるやいなや、婀霧はうなだれ声を上げて泣き始める。「本当に、申しわけありません。私が……私がもう少し早く巫女殿の元に駆けつけていれば、こんなことには……」 けれど、べヌスは目を伏せゆっくりと頭を左右に振った。「そなたのせいではない。気に病むな。すべては……」 ひとたびべヌスは言葉を切った。 アウロラに視線を落とすと、べヌスは静かな声で告げた。「吾の咎だ。吾が……」 言うと同時に、一筋の涙がべヌスの頬を伝い落ちる。 武神べヌスの涙
昼間幾多の生命が散っていった平原を、月明かりが照らしている。 その中を、漆黒の駿馬が駆け抜ける。 乗り手は言うまでもなく闇の神にして王たるべヌスである。 彼が目指しているのは、ブイオの砦。 敵の手に落ちたその場所へ一人で行こうとする彼を、ノクトを始めとする重臣達は止めた。 確かに使者からもたらされた書状にも、一人で来いとは書いていない。 けれど、べヌスは頑として首を縦に振らなかった。 その理由は、アウロラにある。 彼女はただ一人光神の本陣で、諸将と対峙したのだ。 神であり王である自分が、一介の巫女である彼女にさせてしまったことをしない訳には行かない。 そんな矜持と後悔の念が、べヌスをとらえていたのである。 こういった理由で、彼は一人ブイオへ向かっていたのである。 やがて視線の先に、陥落した砦が浮かび上がって見えた。 かつては夜通し明かりが焚かれていたその砦も、今は黒い塊にしか見えない。 飛び降りると、べヌスは手近な杭に馬を繋ぐ。 そして、静まり返るかつての砦に向かい呼びかけた。「弟御、来たぞ。どこにいる?」 と、暗がりの中からぼんやりと明かりが近づいてくる。 思わず腰の剣に手をかけ身構えるべヌスの前に現れたのは、甲冑姿の女性だった。 あの人は、確か……。「わざわざのお出まし、感謝いたします。私は弟君の補佐役……」「……婀霧、だったか?」 その一言で、婀霧は凍りついたように立ち尽くす。 それほどまでに自分は恐ろしい顔と声をしていたのだろうか。 べヌスは取り繕うべく何か声をかけようとしたが、うまく言葉が出てこない。 小さく吐息をもらすべヌスを前に我に返ったのだろうか、婀霧はあわてて一礼する。「失礼いたしました。弟君がお待ちです。どうぞこちらにお越しください」
胸騒ぎを感じて、カイは手綱を引いた。 一瞬闇の軍勢が迫っているのかと思ったが、これは敵意ではない。 儚げで悲しげで強い意志がその原因であることに気が付いて、カイは思わず周囲を見回す。 そのような存在は彼が知る限りただ一人、闇の巫女アウロラである。 だが、本陣に拘束したその人がこの戦場にいようはずがない。 その時だった。 かたわらを固める兵達が、上空を見上げている。 中にはある一点を指差している者もいた。 何事かとカイはそちらに視線を移す。と、遥か上空には使者の証である薄藍の布が、糸の切れた凧のように漂っている。 なぜこのような所に。 疑問に思いながらも、カイは風上に視線を巡らせる。 その方向にあるのは他でもない、陥落したブイオの砦だった。 胸騒ぎが、嫌な予感に変わる。 そこからとって返したい衝動に駆られたが、今は戦の真っ最中である。 総大将がそのようなこと、できようはずがない。 そのカイの苛立ちにも似た内心を悟ったのだろうか、脇を固める重臣達が口々に言った。「弟君、いかがでしょう。そろそろ退かれては……」「我々の力を知らしめるのには、もう充分なのではありませんか?」 一瞬ためらった後、だがカイは首を左右に振る。 相手が防御に徹しているのは、必ずしもこちらが圧しているからではない。 べヌスがあえて防戦に全兵力を傾けていることに、カイは気が付いていた。 その証拠に、派手に戦闘が行われている割には、双方の犠牲はさほど出ていない。 ここで退いてしまっては、自分にとっては最良の結果ではあるが、兄である光神は納得してくれないだろう。 さてどうするか。 カイが決断を下しかねていた、その時だった。彼方から、甲高い音が聞こえた気がして、カイは長い耳をぴくりと動かす。 神経を聴覚に集中し、研ぎ澄ませる。 途切れ途切れに聞こえてくるのは、伝
陥落したブイオ。 建物のそこかしこには、何本も矢が刺さっている。 火矢を射掛けられたのか、焦げたような臭いがかすかに漂っていた。「着きましたが……。一体何をされるおつもりですか?」 未だ真意をはかりかねている婀霧の手を借りて、アウロラは馬から降りる。 そして地面に降り立つなり、婀霧に向かい深々と頭を垂れた。「ありがとうございました。この御恩は決して忘れはいたしません」 しかし対する婀霧は、まだ何が何だかわからないとでも言うように首をかしげる。「御恩も何も……。こんなところへ来て、これからどうするおつもりなのですか?」「わたくしは、わたくしにかせられた役目を果たすだけです。婀霧様はどうか、自陣へお戻りください」 弟君には、わたくしから脅されてこのようなことになったと言っていただいて構いません。 そう言ってアウロラは寂しげに微笑んだ。 呆気に取られて立ちすくす婀霧に会釈をすると、すっかり荒れ果てた砦の奥へ向かって歩き出す。 しばし婀霧はその後ろ姿を見送っていたが、武人の勘とでも言うべき何かだろうか、妙な胸騒ぎを覚えた。 次第に小さくなっていくアウロラに向かい、あわてて声をかける。「巫女殿? どちらへ?」 無論、返事が返って来ようはずがない。 言いしれない不安を感じ、遂に婀霧もアウロラを追って砦の中へと足を踏み入れた。 ※ 陥落した砦である。 当然そこかしこには、打ち捨てられた兵の遺骸が転がっている。 上空では猛禽達が旋回し、嫌な鳴き声を上げている。 こんな不気味なところに、あの巫女は一体どんな用件があるのだろう。 薄気味悪さに僅かに身震いしながら、婀霧はアウロラの姿を探す。 そして、その視線を上方に向けた時だった。 視界の端に、薄藍の布が飛び込んでくる